財務省の経済政策敗戦②

1980年代後半にバブルが生成された。
その後、1990年の到来と同時にバブル崩壊が始動した。
爾来、35年の時間が流れた。
日本経済が活況を呈したことは一度もない。
日本の失われた35年。
この間に二度、日本経済が本格浮上するチャンスがあった。
一度目は1996年。
バブル崩壊不況が一巡し、日本経済はようやく巡航速度の経済成長を達成。
経済を成長軌道に移行させるとともに抜本的な不良債権処理を断行していれば、日本経済は1990年代後半以降に経済成長軌道に復帰できたはずだ。
しかし、1996年央が下方屈折点になってしまった。
1996年6月25日、橋本龍太郎内閣が消費税率を2%引き上げる方針を閣議決定した。
日経平均株価は翌26日に22666円をつけて暴落に転じた。
98年10月9日の12879円まで暴落した。
この危機を打開したのは小渕恵三内閣。
財政金融政策と公的資金投入による金融不安対策を総動員して株価と経済の回復を誘導した。
ところが2000年4月に小渕首相が急逝。
森喜朗内閣発足とともに財務省は緊縮財政路線を始動させた。
森氏が自民党総裁選における地方票のウエイトを引き上げたことが翌年の小泉純一郎内閣発足の原因になった。
2001年4月に発足した小泉内閣は「改革なくして成長なし」を唱えて超緊縮財政運営を強行。
私はテレビ番組で小泉内閣が宣言通りの政策を実行するなら日本経済は史上最悪の状況に陥ると述べだ。
実際に小泉内閣発足と連動して株価は暴落軌道に移行。
2003年4月の7607円まで大暴落した。
2002年9月の内閣改造で竹中平蔵氏が金融担当相を兼務することになった。
竹中金融相は突然、銀行の自己資本比率算定を厳格化すると宣言。
同時に大銀行破綻もあり得ると述べた。
この政府方針を背景に株式市場は投げ売り状況となった。
2003年3月の決算期末を過ぎた後で、りそな銀行の監査法人である朝日監査法人がりそな銀行に自己資本不足の通告を行った。
朝日監査法人の担当会計士は異論を唱えたと見られるが、朝日監査法人内での会議の直後、自宅マンションから転落死した。
小泉内閣は「退出すべき企業は市場から退出させる」と述べていたが、りそな銀行を破たん処理しなかった。
繰り延べ税金資産3年計上という〈あり得ない措置〉が取られ、りそな銀行は自己資本比率を達成しないがマイナスにはならないとして、公的資金による救済が行われた。
これを契機に日本の株価は猛反発。
竹中金融相はこれに先立つ2月7日の閣議後懇談会で
「(株価連動の)ETFは絶対儲かる」
と発言して引責辞任すれすれまで追い込まれた。
一般投資家は「大銀行破綻もある」との竹中氏の言葉を受けて暴落株式を投げ売りした。
しかし、竹中金融行政はりそなを〈破たん処理〉でなく〈公的資金で救済〉した。
だから、株価が反発に転じた。
初めから公的資金による銀行救済を予定していたと見られる。
これが「絶対儲かる」発言の背景だったと見られる。
このシナリオを事前に知った者は濡れ手に粟の巨大利益を獲得したと見られる。
国家による〈風説の流布〉、〈株価操縦〉、〈インサイダー取引〉であった疑いが強い。
拙著『日本経済の黒い霧』(ビジネス社)に日本経済の40年史を要約して記述している。
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