JOG(1477) 皇位継承の危機を先人たちは日本独自の叡知で乗り越えた

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JOG(1477) 皇位継承の危機を先人たちは日本独自の叡知で乗り越えた
『日本書紀』には多くの漢籍からの引用や影響があるが、その根底では日本国としての独自の理念を主張していた。 ■転送歓迎■ R08.06.21 ■ 85,118 Copies ■ 9,500,362Views■ 過去号閲覧: 無料受講申込み: __________ ★★★「国の宝を育てる授業」★★★ 志ある小中高校の先生方が工夫して実践した「お手本…

JOG(1477) 皇位継承の危機を先人たちは日本独自の叡知で乗り越えた

『日本書紀』には多くの漢籍からの引用や影響があるが、その根底では日本国としての独自の理念を主張していた。

■1.五世代前に分かれた家系から皇位についた継体天皇

花子: 最近ニュースで「皇室典範の改正」ってよく聞くんですけど、どういうことですか?

伊勢: ああ、国会で皇室典範を改正するための「立法府の総意」がまとめられて、政府が改正案を作る作業を進めるという話だね。皇位継承、つまり誰が次の天皇になるか、という制度の話だよ。今までは男系男子、つまり父方をずっとたどると神武天皇につながる男性が皇位を継ぐ、という形で続いてきたんだ。

花子: 男系男子って、ずっと昔からそうだったんですか?

伊勢: そうなんだ。その点で、最近出版された寺田恵子・元学習院女子大学講師が書かれた『日本書紀 全現代語訳+解説』第5巻に、我々の祖先がいかに苦労して、男系継承を守ってきたかが、二例、紹介されている。

 一例目は、第22代の清寧天皇に皇子がいなかったケースだ。その時は、清寧天皇の祖父の兄の孫、つまり再従兄弟(はとこ)が第23代顕宗天皇として即位された。

 二例目は、第25代武烈天皇が、皇子も兄弟もいないまま亡くなってしまったことだ。そこで、第15代応神天皇から数えて5世代目の子孫にあたる方を福井から迎えて、第26代継体天皇として即位いただいた。正確な年代は分からないけど、5世代と言ったら、応神天皇から100年近くを経た子孫が皇位に復帰した、ということになる。

継体天皇陵と考えられている今城塚古墳(大阪府高槻市)

花子: 100年近くも前に分かれた系統の子孫を迎えたんですか!それはすごいですね。でも、武烈天皇には女性の親族もいなかったんですか?

伊勢: 実は、武烈天皇には同母姉の手白香皇女(たしらかのひめみこ)がいたんだ。

 現在の女性・女系天皇論者の主張に従うならば、この皇女が次の天皇として即位すればいい、という話になる。そして、皇族以外の男性を迎えて、お子様が生まれれば、母方のみが皇室の血筋を受け継いでいるという「女系」になる。「女系天皇も認めよ」という主張に従って、そのお子様が即位すれば世界最古の皇室の歴史の中では決して許されなかった女系天皇が生まれる。

花子: じゃあ、なぜそうしなかったんですか?

伊勢: そこに当時の人々が、皇位をどう考えていたのか、窺えるだろう。そういう先人の思いや努力を全く無視して、男女平等だから女性天皇も女系天皇も認めよ、というのは、ずいぶん乱暴な議論だと、私は思うね。寺田先生の著書に従って、当時の人々がどんな思いで、どんな苦労をして、なんとか男系で繋げた物語を見ていこう。

■2.中国の史書からコピーされた武烈天皇の暴虐記述

伊勢: まずは皇子も兄弟もないまま亡くなってしまった武烈天皇を見ておこう。日本書紀では、きわめて異常な天皇として描かれているんだ。皇太子になられた頃のことを、書紀はこう書いている。

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・・・成人なさってからは、刑理(罪人を罰し、善悪を判定すること)を好まれた。法律もよくご存じで、日が暮れるまで政務に取り組まれた。人に知られていない冤罪は必ず見抜いてそれを晴らされ、訴訟の裁定は実情によく即していた。
 また、しきりに種々の悪行をおこなわれ、一つの善事をもおこなわれなかった。酷刑はすべて自分でご覧になった。国内に住む人は、皆恐れ震えた。[寺田、p80]
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花子: 前段の記述からは、とても立派な皇太子のように見えますね。日が暮れるまで政務に取り組まれて、冤罪も見抜いてくださるなんて。でも、後段の記述は急に変わって、別人のようですね。

伊勢: そうなんだ。前段の記述からは、民を冤罪から守るために懸命に仕事をされたという姿が浮かぶ。それなのに、突然「種々の悪行をおこなわれ、一つの善事もおこなわれなかった」と書紀は断定する。どうにも唐突で、具体的な人物像が思い浮かばない。さらに即位後の記述はもっと異様だ。
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二年(五〇〇年)秋九月、妊婦の腹を裂いて、その胎児をご覧になった。
三年(五〇一年)冬十月、人の生爪を抜いて山芋を掘らせた。・・・
四年(五〇二年)夏四月、人の頭髮を抜いて、樹の梢に登らせ、その樹を切り倒して登った者が落ちて死ぬのを楽しみとされた。[寺田、p98]
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花子: ひどいですね……。こんなことが本当にあったんでしょうか?

伊勢: この記述について、寺田先生はこう述べている。
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天皇の異常な行動が記され始めます。このような行動は、これまでの天皇にもこの先の天皇にもありません。天皇の行為については、主に神聖性や慈愛などが語られてきた『日本書紀』においては明らかに異質な記述です。
この妊婦の腹の話は、中国古典『呂氏春秋』にほぼ同文があり、このような行動についての表現が漢籍から写し取られたものであることが古くから指摘されています。[寺田、p98]
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花子: つまり、実際に起きたことではなく、中国の古典からそのままコピーした文章、ということですか?

伊勢: その通りだね。妊婦の話だけでなく、他の異常な行動も複数の漢籍が出典として明らかにされている。つまり、武烈天皇が悪逆な天皇であったと、意図的に書かれているわけだ。そして、これらの記述の後で、突然、武烈天皇の崩御が記される。

■3.聖帝・仁徳天皇の皇統断絶の理由づけに悪者にされた武烈天皇

花子: なぜ、わざわざそんなふうに悪く書く必要があったんでしょうか?

伊勢: その点について、寺田先生はこう解説している。
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 聖帝といわれた仁徳天皇からの皇統が途切れざるをえなかった理由として、武烈天皇の一連の粗暴な行動が描かれているというのが、研究者のほぼ一致した見解です。そこには、中国古代の易姓革命の思想があったといわれています。このため、中国古典から引用した暴虐な行動が記されているのでしょう。

中国の歴史書では、優れた君主に始まる王朝が、やがて腐敗し、悪逆な君主が現れると、それは他の優れた者に滅ばされ、または譲られて新たな王朝が始まります。君主の血筋も姓も易わるので、これを易姓革命といいます。この思想が、武烈天皇紀の背後にあったのは、これまで指摘されてきたように間違いないところでしょう。[寺田、p103]
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花子: ということは、武烈天皇はそんなに暴虐なことはしなかったのに、仁徳天皇の皇統断絶の理由として、悪く描かれてしまった、ということですか?

伊勢: そのようだね。しかし、日本書紀が本当に訴えたかったのは、その先にある。

■4.大伴金村の忠節

伊勢: 武烈天皇が崩御された後、実際の政治を司る大連(おおむらじ)の大伴金村がこう語って、次の天皇を立てることを促したんだ。
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今や、お世継ぎとなる皇子がいらっしゃらない。天下はどこで心を一つに結べようか。古くから今に到るまで、禍(わざわ)いはここから起こるのだ。[寺田、p110]
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花子: 大伴金村というのは、どんな人なんですか?

伊勢: 武烈天皇が皇太子だった頃に、専横を極めていた大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)とその息子・鮪(しび)を滅ぼして功を立てた人物だ。真鳥は「日本の王になろう」と言ったと伝えられていて、鮪は皇太子の想い人を横取りした人物として描かれている。平群氏は渡来人系の一族という説もある。

 大伴氏は天孫降臨の際に随伴した天忍日命(あめのおしひのみこと)を祖としており、神武東征でも功を立てた一族だ。中臣氏、つまり後の藤原氏もそうだけど、祖先が神話時代から皇室に仕えていた一族には、祖先の忠心を受け継いで自分たちも皇室に尽くすのが使命だという覚悟があるようなんだ。

花子: 長い歴史の中で培われた、皇室への忠誠心なんですね。それで、金村はどうやって次の天皇を探したんですか?

伊勢: まず金村は、第14代仲哀天皇の5世の御孫が丹波にいらっしゃるので、お迎えして天皇にお立て申し上げたいと提案した。大臣、大連たちも皆賛同して、お迎えの軍勢を差し向けたんだが、その方は軍勢を恐れて逃げだし、行方知れずになってしまった。

■5.男大迹王の即位

伊勢: そこで金村は再び協議して、こう言ったんだ。
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「男大迹王は、恵み深く、孝養の心の厚いご性格でいらっしゃる。このお方こそ皇位をお継ぎになる方であろう。心を尽くしてお勧めし、皇統の弥栄(いやさか)を願おう」と言った。
 物部麁鹿火(もののべのあらかい)大連、許勢男人(こせのおひと)大臣たちは皆、「御皇孫をよくよくお選びしたところ、賢者であるお方は男大迹王だけでいらっしゃる」と言った。[寺田、p111]
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花子: 皆が一致して男大迹王を推挙したんですね。

伊勢: しかし、王はすぐには皇位につくことを了承されなかった。今の福井県まで臣、連たちがお迎えに行ったんだが、たまたま河内国の者が王の知人で、大臣、大連らのお迎えの本意を説明したので、とりあえず出発されたんだ。そして金村が天皇への即位をお願いすると、王はこう仰せられた。

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二月四日、大伴金村大連は、ひざまずいて天皇の璽符(みしるし)である鏡と剣を奉り、拝礼した。男大迹天皇(伊勢注: 即位前だが、日本書紀では天皇として記述)は、これを拒んで、「民を子として国を治めることは、重大なことである。私は才がなく、ふさわしい者ではない。どうかよく考えて賢者を選んでほしい。私は皇位に即(つ)くべき者ではない」と仰せられた。
大伴大連は、地に伏してなおも懸命に請い願った。男大迹天皇は、西に向って三度辞退され、南に向かって二度辞退された。大伴大連たちは皆、「私どもが伏して考えまするに、大王は、民を子として国を治めるに最もふさわしいお方でいらっしゃいます。私どもは、この国家のための計を決して軽率に考えたのではありません。どうか皆の者の願いをお聞き届けになってください」と申し上げた。
 男大迹天皇は、「大臣、大連、将相、諸臣、みなが私を推挙している。敢えてこれに背(そむ)くこともできぬ」と仰せられ、璽符(みしるし)をお受けになった。[寺田、p116]
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花子: 何度も辞退して、謙虚で慎重なお方だったんですね。

伊勢: そうなんだ。「民を子として国を治めることは重大なことだ」という言葉には、天皇の役割の重さをよく分かっている姿が表れている。そして大伴金村以下、臣下一体となった懸命の懇願により、男大迹王はついに即位を承認された。

花子: 臣下の皆さんが心を一つにして懸命にお願いし、王もその思いを受け止めて覚悟を決められたんですね。なんだかとても清々しい場面ですね。

■6.「継体天皇が新たな王朝を建てた」?

伊勢: 一方、昔からある異説で、「皇室とは血のつながっていない人物が、新たな王朝を建てた」のに、それを正当化するために、「五世も昔に枝分かれした系譜から迎えられた」と創作されたという論者がいる。しかし、この説に対して、竹田恒泰氏はこう否定している。
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もし王朝交代があったなら、それなりの戦争があったはずですし、文化の入れ替わりがあるはずです。ところが、王朝交代を裏付ける証拠が何もないばかりか、古墳時代 (初代神武天皇〜第二十七代安閑天皇)を通じて大規模な戦争の形跡は全く見えず、また文化も一定の方向性をもって発展していることから考えると、古墳時代を通じて王朝交代を想定することはできません。[竹田、p321]
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花子: なるほど、王朝が変わったなら戦争や文化の断絶があるはずなのに、そういった証拠が何もないんですね。

伊勢: そうなんだ。しかも、大伴金村の懇請により、継体天皇は武烈天皇の姉・手白香皇女を皇后に迎えている。竹田氏はこう述べている。
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 ですから、継体天皇の御即位は、血筋の違う地方豪族が武力によって皇位を簒奪したのではなく、祖先を同じくする二つの系譜が、この婚姻によって再統合されたと考えるべきでしょう。[竹田、p320]
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伊勢: 武烈天皇の後の皇統の危機も、こうして大伴金村をはじめとする忠臣たちの努力により、無事に乗り越えることができたんだ。

花子: 忠臣たちが知恵を絞り、心を一つにして皇統を守り続けてきたんですね。日本の歴史の底に流れる力強さを感じます。

■7.「易姓革命の道は選ばない」という日本書紀の主張

伊勢: ここで面白いのは、中国との比較だ。中国であれば、新たな軍事勢力が旧王朝を戦いで滅ぼして天下をとる易姓革命が行われるところだ。しかし日本では、平和的に数代前に分かれた系譜を辿って、しかも現在の皇統を再統合する形で皇位が継承されていった。寺田先生はこう書いている。
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ここは、むしろ易姓革命に対するアンチテーゼを語ろうとしているのではないでしょうか。ここでの皇位継承は、易姓革命が起こるような状況が、たとえ現れたとしても、その道を選ばないことを主張しているように読めます。・・・
『日本書紀』には多くの漢籍からの引用や影響があります。しかし、根本的なところで、日本の国としての理念には独自の主張を展開していたということが、この継承の流れには認められるように思われるのです。[寺田、p172]
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伊勢: 漢籍の暴君描写を借りながらも、日本書紀が伝えたかったのは、中国とはまったく異なる日本独自の国の姿だったということだ。

花子: 表面だけを見ると中国の影響を強く受けているように見えましたけど、その根底には「日本はこういう国だ」という編纂者たちの強い主張が流れていたんですね。

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