イスラエル・パレスチナ問題

世界各国の歴史

50年以上続くイスラエルとパレスチナの紛争が2023年に新しい局面を迎えています。
2023年11月7日に中東のパレスチナ自治区・ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが、イスラエルに対して数千発のロケット弾を発射するとともに、ハマスを含むパレスチナ側の戦闘員が初めての越境攻撃をおこなって人質を拘束した。これに対して、イスラエル政府も宣戦布告し、両国は交戦状態に入った。
2024年1月段階でもこの紛争は停戦、停戦の道筋が見えていない。

この問題は私達一般の日本人からは非常に見えにくい。日本のマスコミからはバイアスのかかった情報、報道しかなく、事実が全く見えてこないですね。

この問題を考えるには、やはり歴史的な背景をしっかり掴みながら、事実を追求したいと思います。
以下、リンク先の記事を紹介します。

イスラエル・パレスチナ問題

イスラエル、パレスチナ問題を簡単に分かりやすく解説
ニュースでもとり上げられているイスラエルとパレスチナの争いって何が原因なの?宗教的問題?それとも他に何か??

イスラエル、パレスチナ問題について、よくニュースなどでは耳にしますが、いったいなぜこんな事態になってしまったのでしょう。歴史の観点から当ホームページも少し詳しく説明していきますね。

 実は、この問題を知るにはかなり昔にまで遡る必要があるんです。

 どれくらい昔かって?それは3000年前も昔のお話から・・・。その頃、現在のイスラエル地域はイスラエル王国というのがあってユダヤ人がこの地を治めていました。ダビデとかソロモン王とか有名ですね。

 しかし、問題なのがこの地域がとても重要な場所に位置していたという点。地図を見るとわかりやすいんですけど、アジア、ヨーロッパ、北アフリカを結ぶ重要な場所なんです。だから、み~んな欲しくてたまらないわけです。ですから、この地域は色々な国や民族に支配が移り変わることになります。

 紀元前586年には新バビロニアによって征服されます。その後、勢力を伸ばしてきたローマ帝国によって征服。そうなるともう、もともと住んでいたユダヤ教のユダヤ人たちはここに住んでいられなくなってくるんです。ですから、世界各地にユダヤ人たちは散らばっていくようになっていきます。おっと、そのかわりキリスト教がこの地で生まれますね。←これは超有名!

 そして614年にはペルシャによる侵攻。636年にはイスラム帝国が占拠します。この7世紀ごろからはアラブ人もこの地に入ってくるようになり彼らはイスラム教徒になっていきます。

 このようにして、この地はいろいろな国、民族、宗教が移り変わっていったんですね。ですから、この地域のエルサレムという場所はユダヤ教、キリスト教、イスラム教と3宗教の聖地ともなっていますよ。これがイスラエル、パレスチナ問題の出発点となってきます。

 キリスト教徒は11世紀の後半から十字軍を遠征させ聖地奪還を目指しますがこれに失敗。

 そして、16世紀にはイスラム教のオスマン帝国という強い国がこの地域を支配することによって長い戦いの歴史にも終止符が打たれることになります。このオスマン帝国の時代がどれくらい続くか?なんと400年あまりです。そしてオスマン帝国では、この地域をパレスチナと呼ぶようになります。

 一方で世界各地に散らばっていったユダヤ人たち。彼らは、勤勉で超優秀なんです。ですから、大成する人も多くいる一方でやっかみ、迫害を受けてパレスチナの地域に戻ってくる人も出てきます。でも、パレスチナにはアラブ人がすでに住んでいますよね。しかし、パレスチナの地に戻ったユダヤ人たちとアラブ人の間には多少のいざこざはあったにせよ、彼らの関係性は比較的穏やかに暮らしていた時代だったといっていいでしょう。

 そんな中、第一次世界大戦が始まります。オスマン帝国はイギリス、フランス、ロシアと対立します。そして、この時にイギリスがとんでもない約束をしてしまう!!!

 まず、イギリスはアラブ人に対して「イギリス軍に協力するなら君たちの国家をつくるのに強力するよ」と持ちかけます(フセイン・マクマホン協定、1915年)。一方ではユダヤ人の金融資本家から資金提供を受けるために「お金だしてくれるならユダヤ人の国家を作るのに協力しますよ」と明らかに矛盾した約束をしてしまうんです(バルフォア宣言、1917年)。

 イギリスは、ユダヤ人、アラブ人両方に独立国家をつくるという約束をしてしまったんですね。これが、現在に至るまでユダヤ人とアラブ人との関係がこじれてしまう原因です。

 結局、イギリスはどちらも裏切り、パレスチナを委任統治領とします。ただ、ユダヤ人を優遇はしていたので1920年代には少しづつユダヤ人が増えていくことになります。しかし、1930年代になると、そのユダヤ人の移住が急増します。年間20万人というものすごい数!なぜか?そう、ドイツのナチスが力をつけユダヤ人を迫害したことなどが原因ですね。

 ところでパレスチナという土地ですが、ここはすっごく狭い!日本の四国と同じくらいの大きさです。そこにユダヤ人がどんどん入ってくる。アラブ人は「なんじゃ、こいつら!」と怒り対立が深まっていくことになります。

 1947年。第二次世界大戦後にはイギリスがパレスチナにおける治安維持能力を失い撤退するとこの地を国連の決定に委ねることにします。

 もう、ユダヤ人とアラブ人の対立が激化しすぎちゃってイギリスも嫌になっちゃうんですね。一応イギリスも「ユダヤ人とアラブ人で仲良く土地を分けましょうよ!」と提案はしますが両者ともに無視!もう、国連に任しちゃえ!!ってことになったんです。

 そして、イギリスに丸投げされた国連が出した決断とは?やっぱり、イギリスと同じ「パレスチナ分割案」。しかし、この国連の分割案にはユダヤ人にかなり有利な分割案となりました。水利が整っている地域はユダヤ人に荒地はアラブ人に・・・。これにはアメリカの強い後押があったといわれています。

 アメリカにはユダヤロビーといって人口はそれほど多くはいないんですけど大統領選に重要な地域であるニューヨークなどに多く住んでいるユダヤ人たちがいるんです。彼らはその上に組織力と投票率がハンパない。しかも、アメリカでは1948年に大統領選が控えていたんですね。ですから、ユダヤロビーの支持を獲得したいと当時のアメリカ大統領は考えたんですね。ちなみに、当時の大統領はトルーマン。

 こうして、この国連分割案にそって1948年にはイスラエル国が独立宣言されることになります。ですけど、そんなのアラブ人が黙っているわけもありませんよね。近隣のアラブ諸国に力を借りイスラエルへと乗り込みます。これが第一次中東戦争です。パレスチナ戦争ともいいますね。この時にエジプトが攻め込んだのが今の「ガザ地区」。そして、ヨルダンが攻め込んだのが「ヨルダン西岸地区」です。現在のパレスチナ自治区とされている場所です。

 この戦争はアメリカの支援もありイスラエルが勝利することになります。では、もともとパレスチナに住んでいたアラブ人(パレスチナ人)はどうなったか?国連の分割案ではパレスチナ人の領土となるはずだった場所もイスラエルが領土拡大で持っていき。ガザ地区はエジプトがちゃっかり支配。ヨルダン川西岸地区はヨルダンが占領することとなります。踏んだり蹴ったりです。

 しかし、このガザ地区、ヨルダン川西岸地区も1967年の戦闘によりイスラエルに占領されることになります。国連としてみたら「そこ、一応パレスチナ人の領土なんですけど」と撤兵勧告を出しますが、そんなのは聞く耳持ちません!

 このイスラエル占領から20年後の1987年。ガザ地区、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人の青年たちが立ち上がる出来事が起きました。彼らは武装したイスラエル軍に対してなんと石を投げて戦ったんです。「そんなの勝てるわけないじゃん!」って普通は思いますよね。しかし、そうでもありませんでした。彼らの映像が世界中に流れ同情が集まることになるんです。そして、1993年にパレスチナ暫定自治協定というのが結ばれます。

 ガザ地区、ヨルダン川西岸地区からイスラエル軍は出て行きなさい!という命令です。しかし、ユダヤ人からは当然のように反発の声も上がり調印したイスラエル首相ラビンは暗殺されてしまいます。

 その後、イスラエル軍とユダヤ人の多くははガザ地区からは出て行くことになりますが、ヨルダン川西岸地区では、現在でもユダヤ人の人口は増えている傾向にあります。

 さて、このような歴史の背景があり、近年のイスラエル、パレスチナ問題ですが、2014年6月にヨルダン川西岸地区でユダヤ人少年3人の遺体が発見されました。その後、7月上旬に今度は東エルサレムにてアラブ人(パレスチナ人)の16歳少年が殺害されます。これにより「ユダヤ人少年の殺人にはパレスチナ人が関わっている!パレスチナの少年殺害はユダヤ人による報復だ!」と怒りが連鎖し対立が起こりました。

 ガザ地区を支配しているイスラム原理主義組織ハマスはイスラエルへのロケット弾攻撃を急拡大。このハマスの拠点であるガザ地区へイスラエルも攻撃に出ました。

 しかし、紛争の本当の理由は経済的な不満だといいます。ハマスと友好な関係にあったエジプトのモルシ政権がクーデターで倒れましたね。それによってガザ地区の経済は一気に追い詰められたんです。ハマスは停戦の見返りに何らかの経済的利得を掴もうとしているようですね。

 イスラエル側もこのハマスへの攻撃といいながら、ガザ地区への空爆、地上戦により多くの民間人を巻き添えにしています。

 イスラエルの隣国であるシリアでは内戦が続いていますし、このパレスチナの混迷は中東地域の紛争の火種にもなりかねません。ですから、世界各国が必死に停戦を呼びかけているわけなんですが、なかなかそれに応じようとしてくれないというのが現在の状況です。

エルサレムは、なぜ3つの宗教の聖地なのか

エルサレムが3つの宗教の聖地となった理由
エルサレムには、なぜユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が集まっているのか?この問題を歴史の観点から紐解いていってみましょう。また、聖地を地図でわかりやすく確認。

エルサレムという場所をご存知でしょうか。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地が集中している地域です。おおよそ東京ディズニーランドと同じくらいの広さの地域に3つの宗教の聖地があり、そのことによっていがみ合いも発生しています。

 なぜ、エルサレムの3つの宗教の聖地が集まったのか?そして、そもそも聖地って何なのか?その辺を詳しく学んでいってみましょう。

 実は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は三大一神教ともいわれ同じ神を崇めています。

 まず、初めにユダヤ教が生まれました。モーセが十戒を神から授かったのが始まりといわれており、紀元前13世紀くらいのお話です。経典は旧約聖書です。

 このユダヤ教は、ちょっと貧しい人たちには厳しすぎるところがあったので、貧しい人や弱い立場の人たちにあなたたちにも神のご加護がありますよって解釈を変えて教えを広めたのがイエス・キリストです。このキリスト教が生まれたのが1世紀。まぁ、神の言葉の捉え方が違うだけで神様はヤハウェというユダヤ教と同じ神様です。ただし、キリスト教では、父なる神と共に神の子であるイエスも信仰の対象となっています。ユダヤ教の経典が旧約聖書であるのに対して、キリスト教では、新約聖書も経典となっています。キリストが生まれる前が旧約聖書で生まれた後が新約聖書という考えですね。

 そして、7世紀にムハンマドが瞑想中に天使ガブリエルから神の言葉を授かったところから始まるのがイスラム教です。このイスラム教では、神のことをアッラーといいますがユダヤ教とキリスト教と同じ神様です。ですから、イスラム教では、実はユダヤ教やキリスト教も認めています。

 ただし、2つの宗教では、長い年月のうちに人間によって神の言葉が歪められてきたとイスラム教では考えられています。イスラム教の聖典であるコーランは基本的には翻訳も良しとしていません。人間によって曲がった解釈が加えられてしまう恐れがあるからですね。神の言葉をそのまま残しているのは、イスラムの聖典コーランのみであるという考えですね。

 このようにユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神を崇める兄弟のような宗教なのです。そして、それら宗教の聖地もイスラエルに集中しています。



 


 ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」

 ユダヤ教の律法として旧約聖書があります。この中でユダヤ人の祖先であるアブラハムという人物が神に信仰心を問われる場面がでてきます。

 神は、アブラハムに自分の息子を生贄に捧げよと命じます。えっ、道徳的にどうなの?って我々の常識では考えられませんが、アブラハムは息子を神にささげる決断をくだします。そして、丘の上の岩に息子のイサクを横たわらせ殺す決意をするんですが、その時に神の声が聞こえてきます。「お前の信仰心は、わかったから殺す必要はない。」

 結果、アブラハムは息子の代わりに羊をいけにえに捧げると、息子と共に丘を降りていきます。ちょっと、深すぎて神の考えがわからんという人も多いでしょうが、ここにいたるまでにアブラハムは60年くらい神様とお付き合いがありましたから、信仰心を試す最終段階の訓練なんですね。究極の最終的な神の教えなわけです。まぁ、どのような言葉にもアブラハムは神を信じて従うかどうか。信仰心の最終テスト。それを見事にクリアしたわけですね。

 ユダヤ教ではこの丘の上の岩を「聖なる岩」として岩のある場所に神殿を建てました。この神殿はローマ帝国によって紀元70年に壊されていますが、現在でも神殿の西側の壁だけは残っています。これを「嘆きの壁」としてユダヤ教徒たちは聖地としているのです。

 キリスト教の聖地「聖墳墓教会」

 キリスト教の聖地の理由は、我々日本人にもわかりやすいです。エルサレムは、イエス・キリストが十字架に架けられた場所ですからね。
 
 イエス・キリストはベツレヘムで生まれますが、パレスチナの各地で布教活動をして、その後、エルサレムにて捕らえられています。そして、十字架に架けられた場所が「ゴルゴタの丘」です。この丘にたてられたのが聖墳墓教会です。

 イスラム教の聖地「岩のドーム」

 ユダヤ教の聖地である「聖なる岩」ですが、この岩のある場所が実は、イスラム教にとっても聖地なのです。イスラム教の開祖ムハンマドはこの「聖なる岩」の上に手をついて、そこから天に上がっていき、かつて神の声を聞いた預言者たち、イエスやモーセ、アブラハム、アダムらと会い、再びエルサレムに降りてきて、メッカに戻ったといわれています。

 この聖なる岩をイスラム教徒たちは、丸い屋根で覆い、「岩のドーム」としました。

 エルサレムが3つの宗教の聖地である理由

 イスラム教徒とユダヤ教での聖地の由来は、同じ「聖なる岩」なんですね。アブラハムが神の命によって息子を生贄に差し出そうとした岩。その岩に触れてイスラムのムハンマドは天に昇って行ったわけですので聖地がかぶってるんですね。

 さらに、イエス・キリストが生まれるまでは、この地域にはユダヤ教が広まっており、イエスは、このユダヤ教の改革運動を行っていたわけですので活動していたのが、この地域だったわけです。ですから、捕らえられて十字架に架けられたのもおのずとこの地域になるのは当然ともいえますね。ちょっと、近すぎた感はありますけどね・・・。

 というわけで、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって譲れぬ聖地がこのエルサレムに集中してしまっているというわけなんです。

パレスチナ自治区

パレスチナ自治区って何?
パレスチナ自治区ってよく耳にしますが、この自治区って何?国なの?イスラエルとの関係で長年揉めている理由などなるべくわかりやすく解説いたします。

パレスチナ自治区とは、地中海の東岸に位置するパレスチナ地域のパレスチナ人による自治が行われている地域をいいます。ヨルダン川西岸地区とガザ地区です。

 

 地図を見てわかる通り、パレスチナ自治区ってイスラエルの中でヨルダン川西岸地域とガザ地区と離れて位置していますね。なんで、こんな飛び地の地域になったのか?

 このパレスチナ自治区について少し詳しく見ていってみましょう。

 第一次世界大戦の前までは、オスマン帝国という国がこの地域を支配していました。現在のイスラエルとパレスチナ自治区の地域です。超でっかい国だったので、こんな地域は一部ですけどね。

 しかし、第一次世界大戦にてオスマン帝国側はイギリス、ロシア、フランスらの連合国に敗北してしまうんです。

 この第一次世界大戦の時にイギリスは、この地域にいるパレスチナ人(アラブ人)とユダヤ人にとんでもない約束をするんですね。

 パレスチナ人に対しては、「イギリスに協力してくれれば、君たちの国をつくってあげるよ」

 ユダヤ人に対しては、「資金を提供していただけるのでしたら、あなたたちの国をつくることを約束しますよ」

 結果、戦争に勝利したイギリスは、どっちの約束も破って、この地域を委任統治領としました。ただし、どちらかといえば、ユダヤ人を優遇していたので、だんだんユダヤ人は増えていきます。

 まぁ、この辺までは、まだ良かったんです。

 しかし、1930年代になるとユダヤ人がこの地に大量に押し寄せてくる事態となるんです。そう、ナチスによるユダヤ人迫害によって逃げてきたんですね。

 ちなみに、この地域って四国と同じくらいの大きさ・・・。そこに年間20万人づつユダヤ人が増えてくる・・・。

 そして、ついに第二次世界大戦後にはイギリスも、パレスチナ人とユダヤ人の対立が激しくなりすぎて嫌になっちゃうんですね。そして、国連に丸投げ・・・。

 国連は、それじゃ、仲良くパレスチナ人とユダヤ人で、この地を分けましょうってことにします。

 ただし、国連もユダヤ人優遇・・・。水利が整っている地域をユダヤ人。荒地をパレスチナ人・・・。

 なんでかというと、ユダヤ人には強い味方がいるんです。それがアメリカ・・・。アメリカにいるユダヤ人ってお金持ちが多いんです。ユダヤロビーなんていって彼らの組織力、影響力、投票率、資金力が半端じゃない・・・。なので、アメリカ大統領もいわゆる忖度をするわけです。そして、国連に圧力をかけるか、国連もまた忖度するのか・・・???。

 そして、1948年にイスラエル国が建国されます。パレスチナ人は当然黙ってません。近隣アラブ諸国の力を借りてイスラエルに乗り込みます。これが第一次中東戦争。その時にヨルダン川西岸に攻め込んだのがイスラエルの東隣のヨルダン。そして、ガザ地区にはエジプトが攻め込んでいました。

 まぁ、もともと国連による「パレスチナ分割案」。つまり、パレスチナ人とユダヤ人とで仲良く地域をわけましょうという案でパレスチナ人に割り当てられていた地域でもあったんですけどね。

 戦争中にパレスチナ難民たちは、このヨルダン川西岸とガザ地区に逃げ込むことになります。ヨルダン川西岸には187万人、ガザ地区には105万人もの住民が押し寄せることになりました。

 結局、この第一次中東戦争はアメリカの支援もあってイスラエル側が勝利!さらに、パレスチナ人にとって災難だったのは、ヨルダン川西岸地区もガザ地区も1967年の戦闘でイスラエルに占領されることになります。

 さすがに、これはひどすぎる…。と国際的な非難もあり、イスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区から表面上、手を引いていっているように見えますが・・・。

 パレスチナ自治区ってどうゆうものなのか?

 では、現在のパレスチナ自治区、つまり、ヨルダン川西岸とガザ地区は、すべてパレスチナが完全に自治できているのか?実は、そうではありません。 

 ヨルダン川西岸地区では、パレスチナの完全自治区として、政治、行政、治安維持もすべてパレスチナ自治政府が行っている地域も確かにあります。しかし、自治はパレスチナ自治政府だが治安維持はイスラエルが担当する地域。さらに、自治、治安維持ともにイスラエルという3つの地域が未だ多く存在している状態です。

 ヨルダン川西岸地域でのパレスチナの完全自治区というのは、2割ほどしかありません。

 しかも、まとまっているわけでもなく、小さな町が点在している状態・・・。パレスチナ自治区なのに一等地にはユダヤ人が住む住宅街があったりします。

 また、町と町とをつなぐ幹線道路はイスラエル軍が管理しているのでパレスチナ住民は隣町にいくにもイスラエル軍の検問所を通るわけです。パレスチナ自治区なのに・・・。

 一方のガザ地区ですが、こちらは2005年8月にガザ地区からはイスラエル軍は完全撤退しています。しかし、検問所はイスラエルとエジプトの管理下にありガザ地区に住む住人は自由にこの地区から出入りすることはできません・・・。

 ちなみにヨルダン川西岸とガザ地区は合わせても茨城県くらいの面積しかありません。パレスチナ自治区ってめちゃくちゃ小さいんですね。その地域の中でも完全にパレスチナが完全自治区としているのはさらに小さな地域というわけです。

 そんな小さな地域ですので、当然財政とか厳しそうですね・・・。

 パレスチナ自治政府の財政

 パレスチナ自治政府の運営は、半分はEUなどの外国からの資金援助が頼りです。残りの半分は税収なのですが、この税収の6割が実はイスラエルから支払われているんです。仲が悪いはずなんですけどね。

 還付金っていうんですが、パレスチナ人がイスラエル産の商品を買うと、これにかかる税金をイスラエル政府がパレスチナ自治政府に還付します。

 なので、パレスチナがイスラエルに対して攻撃的な態度をとった時などにイスラエルは、この還付の割合を引き下げたりするんです。これでパレスチナに財政的な攻撃を与えるんですね。

 我々日本人には、こういった人種問題や宗教問題などピンとこないところがありますが、争いが貧困につながり、多くの人が難民として貧しい生活を送っている状態です。遠い国のお話と捉えず、こういったニュースや情報にも耳を傾けておきましょう。

オスロ合意

パレスチナ問題は解決しかけていた?
現在も続くイスラエルとパレスチナの争い。しかし、1993年にオスロ合意にてパレスチナ問題は解決しかけていたことをご存知でしょうか。では、なぜ、このオスロ合意は崩壊してしまったのか?

現在でも新聞などでイスラエルとパレスチナの争いを報じるニュースを目にしますね。このイスラエルとパレスチナ問題ですが、実は一度1993年に和平が実現するチャンスがありました。

 それがオスロ合意です。

 1993年9月、ノルウェーのホルスト外相が仲介し、パレスチナの自治をめざす合意が成立しました。ノルウェーの首都であるオスロで交渉が進められたのでオスロ合意といいます。

 パレスチナ自治区であるヨルダン川西岸とガザ地区からイスラエル軍は出ていってパレスチナの自治を認めますっていう約束がかわされたわけです。

 この合意の調印式はワシントンのホワイトハウスでクリントン大統領を保証人として行われました。

 しかし、1995年11月にイスラエルのイツハク・ラビン首相が暗殺されてしまうのです。犯人は、イスラエルの右派強硬派の若者でした。パレスチナに妥協したことを不服として怒りをぶつけたのです。

 このラビン首相亡き後をいったんはラビンと同じ労働党のシモン・ペレスがかわって首相となりますが、その後の選挙で右派政党のベンヤミン・ネタニヤフが首相になると和平交渉の進展が見られてなくなっていきます。

 1995年の選挙では、労働党のバラクが首相に選ばれ、再び和平交渉は動き出すのですが、この時、右派政党のアリエル・シャロンという人が数役人の護衛を連れてイスラムの聖地に足を踏み入れるというパフォーマンスを見せるんです。それまでは、イスラム教の大切な聖地にユダヤ人が足を踏み入れることは暗黙のルールの中でユダヤの政治家も避けてきていたんですけど、シャロンはパレスチナ側を挑発するためにわざと行ったわけです。

 このシャロンの目論みは当たり、パレスチナ人たちは抗議の投石をイスラエル治安部隊に繰り返します。これにイスラエルは発砲で応戦。これで、和平どころではなくなります。

 そして、衝突は拡大していき、イスラエルの民衆も和平どころではない。それよりも治安を優先すべきだという考えが広まり2001年にはシャロンが首相として当選するのでした。

 当然、シャロンが首相になってからは和平交渉はいっこうに進まなくなります。せっかくのオスロ合意も水の泡ってわけです。

 しかし、その後、もう一度、パレスチナにとっては大きなチャンス?がありました。

 クリントン政権では、オスロ合意の保証人をつとめ、その後もパレスチナのアラファト議長とイスラエルのバラク首相の仲介役などを努めてきたアメリカ。

 その後、アメリカの政権はブッシュ大統領へと受け継がれます。ブッシュ政権は、この中東問題には、あまり積極的とはいえませんでしたが、イスラエルとパレスチナの争いが激しさを増してくる中である提案を持ち掛けます。

 パレスチナ自治区ではく、パレスチナの国家を認めるというものでした。2002年6月のことです。

 パレスチナ人にとっては、これ以上ない提案!すぐにでも実現に向けて動き出したいところですが、ブッシュは、パレスチナ国家樹立のために1つ条件を出していたのです。

 それがアラファト議長の引退。

 実際は、アラファトと名指しはしていないんですが、「新たな指導者を必要としている」と発言していますので、事実上の引退を突き付けるものでした。

 まぁ、実際にアラファト議長の任期は2000年に切れていて、本来は選挙で新たな指導者を決めなおさなければならなかったんですどね。イスラエルとの争いが続いていて選挙ができる状況ではないという理由でアラファト議長がずっと議長の職にとどまっていたんわけです。なので、アメリカの言うことも最もなんですが、これは、パレスチナ側としては厳しい条件でした。

 パレスチナ政府では、賄賂が当たり前のように行われ、アラファト議長を批判すると逮捕されたりすることもありました。しかし、彼がパレスチナのカリスマであることは間違いなかったんです。実際にアラファトが亡くなった後にはガザ地区にて主導権を巡る争いが起こっていますからね。当時、アラファトを引退させて、国家を樹立してもうまくいかなかったかもしれませんね。アラファト抜きでは、イスラエルとの交渉もうまくいかず、最悪、アラファト引退、パレスチナ国家樹立ならず・・・。なんてことも考えられたかもしれません。

 2004年11月には、アラファト議長も亡くなり、後任には穏健派のアッバス議長が就任しました。その後、ガザ地区ではファタハとハマスが激突し、ハマスが全権を掌握していますが、アメリカとイスラエルはハマスをテロリストと認定して、ハマス抜きでアッバス議長と交渉を続けています。そして、ガザ地区は現在、周囲をイスラエルに包囲され、電力不足、食料不足、医療品不足に悩まされています。

アラブの春

アラブの春って何が原因で起こったの?
中東や北アフリカで起こったアラブの春。これって何が原因で起こり、どうやって広まっていったのか?また、各国の対応、変化、その後はどうなったのか?わかりやすく解説します。

アラブの春とは、2011年の初めから中東や北アフリカで起きた民主化運動です。

アラブの春の原因

 そのきっかけはチュニジアの失業中のムハンマド・ブーアズィーズィーという青年から始まります。青年は仕事がなかったため、野菜や果物を路上で販売をしていたのですが、警察官に賄賂を渡さなかった為に営業ができないようにされてしまったんです。青年は、役所に抗議に行きますが相手にされず、失望した青年は焼身自殺してしまいました。

 イスラム教では、自殺はしてはいけないことなんです。まぁ、自殺がダメなんてのは、イスラム教に限りませんけどね。自爆テロ(ジハード、聖戦)なんてのがありますが、本来、自殺はイスラム教で禁じられています。ですから、イスラム教徒の人にとったら自殺はよっぽどのことです。しかも、イスラム教では、「最後の審判」といって、その日に死んだ者は全員生き返り、神の審判を受けると信じられています。体がないと最後の審判の日に蘇ることができませんから、イスラム教では、火葬はしません。土葬なんです。なので焼身自殺というのは、本来、イスラム教では、御法度中のご法度なんです。青年の焼身自殺は、それほど異例のことでした。

 これを親族が自殺現場を写真にとり、ソーシャルネットワーク(フェイスブック)に投稿。また、衛星放送が取り上げると、全国規模で政権打倒の民主化デモが広がります。

 なぜ、ひとりの青年の死が国中を動かすことになったのか。実は、チュニジアでは、当時独裁政権が続いていたんですね。チュニジアという国は、もともとはフランスの植民地でした。1956年に独立し、1987に無血クーデターによってベンアリという人が大統領になります。その後、ずっとこのベンアリが大統領として国を支配していたんです。

 野党勢力は弱く、選挙でも対立候補が立てられなかったり、立っても選挙を妨害したりして政界を独占。国民の不満も溜まっていたところに、この事件が起こったわけです。

 そして、1ヵ月も経たない2011年1月14日にベン・アリ大統領は国外逃亡を余儀なくされることとなります。23年間も続いた独裁政権は、あっけなく崩壊するんですね。

 このあっという間のチュニジアでの独裁政権打倒と民主化方針を示す政権のスタートは各地に知れ渡ることとなります。

エジプト・リビア・イエメンでも独裁政権に終止符

 そして、2011年1月25日以降、エジプトでも反体制デモが発生。2月11日にはムバラク大統領は国軍最高議会に権限を委譲し、30年続く政権は交代。

 リビアでも反体制派とカダフィ政権との激しい対立が始まり、カダフィ側が国民に武力行使を行ったことに対してイギリス、アメリカ、フランスなどは強く非難。多国籍軍による軍事行動の介入もあり、2011年8月には反体制派が首都であるトリポリを制圧。42年続いたカダフィ政権も終わりを告げます。

 さらにイエメンでも2011年2月からサーレハ大統領に対する民衆の不満が爆発。4月には妥協案として「大統領の訴追は免除するが権限は副大統領に移譲する」という案が湾岸協力理事会によって出されますが、大統領はこれをいったんは拒否。しかし、10月には国連安保理決議が成立し、11月に大統領はついに署名。2012年2月にはハーディー副大統領が大統領に就任しました。

 チュニジアで23年、エジプトで30年、イエメンで33年、リビアで42年と長期に渡り国を支配してきた政権があっという間に倒れていったわけです。その中心となったのが、生まれた時にはすでに独裁政権の中にいた若者たち。彼らはソーシャルネットワークを使い現状を変えてやる!という強い決意の下、戦ったわけですね。

その他の地域でのアラブの春による影響

 バーレーンやオマーン、クウェート、ヨルダン、モロッコ、アルジェリアなどの国でも反政府デモは起こり、政府側は民主化に対し対応を迫られました。バーレーンやヨルダン、モロッコでは憲法が改正されていますね。

 しかし、このアラブの春がすべてあっけなく反体制派の勝利となったわけではありません。

 シリアがそうですね。アサド政権は反体制派をテロ集団として弾圧をしています。まぁ、シリアでは、イスラム国やらヌスラ戦線やら本物のテロ組織もシリアの混乱に乗じて入ってきちゃってますけどね。

 >シリアの内戦

 日本は、2011年に中東や北アフリカに対しておよそ10億米ドルの円借款を実施。インフラ整備などの経済支援、また民主化に関するセミナー、選挙監視団の派遣などを行っています。

 今後、新政権となった国々が内政、外交などでうまくやっていくことができるのか?また、社会的な安定を維持し経済発展を進めていくことができるのか?日本を含め先進国といわれる国々には、そういったことのバックアップが求められています。


(2017年4月現在)

スポンサーリンク

コメント

タイトルとURLをコピーしました